2014年 05月 09日
パリは燃えているか |
またしばらくブログを更新しないまま数ヶ月が経ってしまった。2014年も早や5月だ。そろそろ次の旅行のことも考えねばと思っている。今日この間パリに行ってきた友人がお土産を持って来てくれたので、しばしお茶しながらパリの話になった。
またまた、アーカイブシリーズだけど、2010年に書いた記事。私がヴェネツィアと運命の出会いをするきっかけはパリにありました。
パリは燃えているか(2010年2月GAZZETA TENCO のダイアリーより)
ここ数年パリに行ってない。以前はヴェネツィアに行く際には、必ず抱き合わせでパリでの数日を旅程に加えていたのだけど、この頃はイタリアでの時間を少しでも長くしたいと思うものだからパリをパスすることが多くなってしまった。それにパリという町は、興味と同時にストレスを感じる所でもあり、数日間過ごすだけで何故か疲れてうんざりしてしまうのが常なのだ。埃っぽいし、ゴミだらけだし、カフェは不味いし、やたら物価は高いし、道は判りづらいし、おまけに年々物騒な感じだし---。などと不平たらたらなくせに、しばらく遠のいていると「ちょっと行ってみるのもいいかな」と妙な引力を感じるのもまたパリの不思議なところなんである。譬えていえば、憎たらしいのにしばらく会わないとどうしているか気になっちゃう奴とか、或いは実際食べるとうへ~となるくせに、たまにどうしても食べたくなる味のような。好きか嫌いかといわれれば、たぶん好きなんだろうけど、素直に好きといえない複雑な気持ちにさせるのだ。とはいえ世の中には圧倒的にパリ大好きの多数派が存在しているのだから、屈折しているのはこっちの方なのかもしれないけど。先週パリに行っていたRちゃんがお土産を持ってきてくれた。(もちろん我が家へのお土産はフロマージュとかジャンボン・クリュとか)10年以上のパリ在住経験もある彼女だが、久しぶりに行ったらあまりの変わりよう、特に不景気なのに驚いたそうだ。まさかと思われたデパートの閉店が相次ぎ、ガルニエオペラ座の周辺はユニクロ、GAP、ZARA、などファストファッションの大型店が進出し、昔からの老舗ブランド店は埋没しつつあるらしい。前述のごとくパリについてはちょっと意地悪な目線のある私だけれど、その凋落ぶりをきけば、パリよお前もかとちょっとかわいそうな気もする。それに何より、私がヴェネツィアと出会うきっかけはまずパリから始まったのだ。なので勝手にやや恩義のようなものを感じてもいる。今回はちょっとそのあたりの思い出話も。
今から思えば(というかこの大不況からくらべれば)、バブル崩壊といわれた十数年前の状況もまだまだよい時代だった。なにせファッションブランドのカタログの仕事で、パリでロケ撮影を敢行できたのだから。といっても、潤沢に予算があるわけではなく、経費削減の折りから捻出した苦肉の策だったのだが。当時東京でふつうに撮影しても、スタジオ代やカメラマンやメークアップなどのスタッフ費用、それから高額な外人モデル代を考えると、現地で若手のスタッフを集めて撮影するほうが、同等かやや安いコストでできると踏んだからだ。モデルたちもパリでオーディションして探せば、ずっとチョイスの巾もあって融通が利くし、スタジオのセッティングに苦労しなくても、ロケならではの空気感が出せる。日本からのスタッフとしてはアートディレクターのイサオ君、スタイリストとクライアントの最少人数だけが行けばいい。ただし、このようなゲリラ的な撮影を可能にするには、意志の疎通のできる現地コーディネーターが必要なわけだけど、それが件のパリ在住の友人のRちゃんだったのである。いかなる運命の神様の采配か、彼女がたまたまブッキングしたのがヴェネツィア人カメラマンのダニエレ、そしてイタリアンコネクションでメークアップはフリウリ出身のキアラにつながった。
私は表向きアシスタントディレクターだったが、コーディネーターの手伝いの連絡係やら食事の手配やら、つまりは雑用係みたいなもの。我々日本人クルーはホテル代節約のため、ふつうのアパルトマンをまた借りして合宿をしており、そのハウスキーピングと賄いも私の役目だった。これはけっこう楽しかったな。借りていたのはモンマルトルの高台にあるアパルトマンの1室。このアパルトマンの良いところは、まず第1には窓からの眺めで、真正面にエッフェル塔、パリの町が眼下に一望できた。それから1階がなかなかイケてるブーランジュリだったこと。毎朝パンの焼ける香ばしい匂いで目を覚まし、焼き立てのクロワッサンを食べる贅沢ができた。朝食べるだけではもの足らず、毎日ロケバスに携行するスナック(日本でいうなら、おにぎりというところか)としてクロワッサンを買い込んだ。賄い担当の私は、朝から午後途中までは撮影に同行し、適宜皆と別れ食料買い出しに行って先にアパルトマンに戻るというパターンだった。買い出しの場所はその時の撮影場所によるが、基本はBUCIなどのマルシェやCHAMPIONやMONOPRIXなどのスーパーで、たまにはりこんでボンマルシェの食品館La Grande Epicerieに行ってみたり。常に6~7人分の食材を買うのはけっこうな重労働だったけれど、ポトフ用に大きな肉の塊を買ったり、東京ではとても高くて手のでないフロマージュも選び放題、色んなパテやピエ・ド・コションなど物珍しいシャリュキュトリーのお総菜を試したり、一度やってみたかったことをいろいろと実現できて、束の間ではあったけれどパリのアパルトマン暮らしは実に面白かった。時にはイタリア人、フランス人スタッフも交えて和食。サーモンや小海老、アボカドのちらし寿司や肉じゃが、モロッコインゲンの胡麻和えに鶏肉の炊き込みご飯、照焼きなんかを作った。逆にダニエレの家でイタリアン(当時はまだガールフレンドだったフラヴィアが料理)をご馳走になることもあり、食前酒スプリッツに食後酒ズグロッピーノ、サン・ダニエレ産のプロシュットや白アスパラガスの食べ方を教わったのもこの頃だ。今にして思えば、それらはすべてマンマ・ロージィからの受け売りだったわけだ。イサオ君はヘアメークのキアラから特製ティラミスの作り方を伝授されたり、まさに同じ釜の飯ならぬパンを分け合う仲間(COMPAGNIAコンパニア)として過ごした2週間あまりだったのだ。このパリに序章を記した日伊混合チームはその後も数回各地でロケ撮影をし、それからさらに我々はダニエレの実家であるヴェネツィアを訪ねることになって、物語は第2章を迎えるというわけである。
あれから十数年が経った今、第何章めのページを繰っているのかは判らない。ダニエレも2人のバンビーニの父親だけれど、何やら家庭の事情が微妙なようだし、キアラ一家もパリ、ヴァンセンヌの家を引き払って故郷のウーディネに戻り、パリ風の花屋とフラワーデコレーターを始めた。親しい友人たちの状況もこの数年で変化し、わざわざパリに立ち寄る理由も少なくなってしまった。あの埃っぽさと油臭さが入り交じった地下鉄の匂い、灰色の建物と鮮やかなコントラストをなす配色のウィンドウ、レトロな雰囲気のパッサージュの本屋、小道の奥に小さなギャラリーがあったり、ともかくいちいちこじゃれているんだよね。蚤の市もヴァンヴやモントルイユが素朴でいいな。美味そうな匂いのたちこめる市場の雑踏、ビストロで頼むアンデュイエットにはたっぷり辛子をつけて。ベルヴィルのベトナム料理、マレのファラフェル、バスチーユのワインバーの立ち飲みもいいよね----などなど思い出すとやっぱりね、またちょっと行きたくなってしまうんである。
by tencovenexiana
| 2014-05-09 01:23
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