2014年 05月 09日
シュルレアリスムの季節 |
シュルレアリスムの季節(2011年2月GAZZETTA TENCOのダイアリーより)
六本木の国立新美術館のシュルレアリスム展の内覧会に行った。その日は夜には雪になるかもという薄曇りに、ときたまさし込む光線がタンギーの鈍色の空のようであり、まさしくシュルレアリスム日和。しかもオープンの1日前に行われる招待客のみのプレビューなので、かなりゆったりと観るという幸運にも恵まれる。こういった規模の美術展は観客動員数が凄くて、ともすると結局人の頭を見に行ったということになりかねないですからね。パリ、ポンピドゥーセンターの所蔵による展示は、さすがに本家からの持ち込みだけあって、質量ともに見ごたえ充分。久しぶりに本物のエルンストにデュシャン、マン・レイにダリ、キリコにマグリット、デルヴォーなどなど、どれもがノスタルジックな20年代のパリのなかに煙っているように見え、シュルレアリストたちの肖像やステートメントも展示もありで、あたかもシュルレアリスム宣言の現場を幻視するような気分が味わえました。
そうなんです、我々すっかりふつうに感じているけれど、シュルレアリスムが生まれたのは今から90年近くも昔のことなんですよね。今や安直に「シュールな感じ」なんて形容を使ってしまうけど、当時の人々にとっては、まだ誰も見たことのないどえらい驚異の世界だったはず。アンドレ・ブルトンをはじめ皆一様に三つ揃いに帽子といった紳士そのものなスタイルの肖像を遺しているシュルレアリスト、この方々の頭の中はいったいどうなっていたんでしょうか。どのようにしてこのような芸術と美の価値の変換を考えついたのでしょうか。(詩人の発見、フロイト精神分析学やテクノロジーの発達エトセトラ、必然であったのかもしれないが)それまで毅然として存在してた生活と芸術との間にあった境目を突き破り、意識的にしろ無意識的にしろ別な意味を授けることにしちゃったわけです。古道具市で見つけたガラクタをサロンに出品しようという悪戯のような企み。解剖台の上でミシンと傘が出会うという詩。あらゆる文化に影響を及ぼした20世紀最大の芸術運動ということだけれど、たしかにその後続くポップアートや商業美術までも含めて、以降の芸術はいまだその呪縛から逃れられていない。自動記述、オートマティズムだとかレディメイドだとか、ものすごい概念を発明しちゃった方々、ある意味罪作りよね。仄暗いガラスケースの中のブルトンの初版本に刻まれた「NADJA」の金文字、に思わず見入る…それは霧の向うにあるような昔々の感覚を呼び覚ますものだった。
私が中学~高校生だった頃、マグリットの空がファッションの世界でも引用され、ロックバンドのアルバムジャケットも、横尾忠則もビートルズもみ~んなシュールでポップ、一躍シュール感覚は最もクールなトレンドとして世の中のイメージを埋め尽くしていました。小生意気な高校生だった私も訳も分からぬまま、モノクロームの装幀のかっこよさに惹かれ、一種のファッションアイテムとして白水社の「ナジャ」byブルトン(NADJAという字面も音もおっしゃれー!と思ってた)を持ってた。その後も白水社つながりでレイモン・クノーやマンディアルグ、ボリス・ヴィアンなんぞもぱらぱら覗いてみたり。澁澤龍彦や稲垣足穂の名前を知ったのもこの頃でした。一方ではエラリー・クイーンなどミステリー、フレドリック・ブラウンやブラッドベリィなどのSFファンタジーにはまり、とりわけブラッドベリィは読み尽くしました。ティラノザウルス・レックスつながりで当時のグラムロック、TREXも好きになったり。その後はお約束通りサリンジャー(ついでにいうと、ケルアック、アップダイクには何故かハマらなかった。ファンタジー成分不足?)を経て、大学生になって出会ったのはリチャード・ブローティガン。これもすべて読み尽くし、そのシュールな表現と乾いたリアルがミックスした切ないような文体に(後に村上春樹氏が影響を受けたという)夢中になりました。(しかしthe abortion…堕胎という題名が和訳では「愛のゆくえ」というのはいくら何でも)初めて行った海外がカリフォルニアだったのも、70年代当時カリフォルニアが一番ヒップなカルチャー発信地(ヘイト・アシュベリー!)だったこともあるけれど、ブローティガンの小説に出てくるドメスティックエアに乗ったり、サンフランシスコサワーブレッドを齧ってみたかったから。
こうしてみると私の読書遍歴は、どことなく非現実感の漂うファンタジーというテイストでつじつまがあい一貫しているみたい。金井美恵子や倉橋由美子も好きでしたしね。(三島由紀夫なんていう別格もあるけど)村上春樹も「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」あたりまでは欠かさず読んでいたけれど、名作といわれる「ノルウェイの森」(それまで薄氷を踏むような危うさで保たれていた配合…リアリスティックな描写の中に含まれる風変わりな味わいが薄くなり、その分皮膚感覚的日常感が強まる)から俄然私には読みにくくなり、正直言うと、ねじまき鳥にいたっては最後まで読むことが出来なかった。近頃はもっぱら100%リアルのエッセイの方を読んでいる。現在のノルウェイの森ブームをみるに、どうやら私は相当世間様と乖離しているみたい。へそまがりなんでしょうかね。新作は全部出揃ってから読んでみたい。そう思うと私が結局ヴェネツィアに辿り着いたのも至極当然の成り行きだったと思えます。ヴェネツィアこそ、過去と現在、虚実が入り交じりながら存在し続けるシュルレアルな希有な町。ただそこにいるだけでヴェネツィアの空気の中に魂が溶けていくような快感に浸れるのだから
by tencovenexiana
| 2014-05-09 01:46
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