2017年 01月 09日
2016年ヴェネツィアへ |
昨年の晩秋、3年ぶりにヴェネツィアに行ってきました。
今回の旅はひとことで言えば、法事のようなものでした。マンマとの思い出のいっぱい詰まった家を整理し、チミテロにお墓参りをし、家族や親しい友人たちとマンマの思い出を語り尽くしました。いつものようにうきうきとする楽しい旅ではなかったけれど、行ってよかったと心から思う。
私の人生もまた一つ節目とターニングポイントを迎えていると感じています。マンマが私に手渡してくれたものを大切に、次へと伝えていかなければならないと思っています。
しばらく今回の旅の記録と感じたことをまとめてみます。
ヴェネツィアの家
2015年に最愛のマンマ・ロージィを失ってから、初めてのヴェネツィア。
行く前からずっと気分は沈み、マンマのいないヴェネツィアに行くのがこわくて仕方なかった。日本にいるうちはその不在にも実感が湧かないものだけど、実はとても泣き虫な私、ヴェネツィアに行ったら何を見ても泣いてしまうのではと不安だった。
3年ぶりのヴェネツィアに着き、懐かしい町を歩くと、自分がいるべき場所にいるという思いに、みるみる心がチャージされていくのを感じた。ここはやはり私にとって特別な場所。ヴェネツィアの町は一見変わりないように見えても、やはり色々と様変わりしていた。
そして何よりも、マンマがそこにいないという不思議。おそれていた喪失感は、寂しさや悲しみを通り越して奇妙な非現実感にすり替わっているようだった。
行ってみないことには状況が分からないので、最初の週はネットで探した近所のアパートを借りることにしていた。マンマの家の目と鼻の先の見慣れた町かどのアパートに暮らすのも少しばかり違和感があったが。
到着の翌日、長男のアドリアーノに会い、さっそく空き家となっているマンマの家を見せてもらいに行く。
20年来通った懐かしい戸口の前で、その先はどうなっているのだろうかと、一瞬立ちすくむ。果たして、衣類などある程度整理してあったものの、想像以上にすべてもとのままに残してある部屋を見て、思わず息をのんだ。家具はもちろん、キッチンも食器、リネン類も、まるで今もまだマンマが住んでいるみたい。あまりの懐かしさに心がしめつけられる。
「何もかもまだそのままだ。マンマのいんげん豆だ」とアドリアーノ。冷凍庫の中にはなんと大量のいんげん豆のストックが入ったままだった。マンマがずっとここで私たちを待っていて、呼び寄せてくれたのだと強く感じた。
マンマのふたりの息子たちはもうとっくに独立してこの家を離れている。70代以降のパパやマンマと一番長い時を過ごしたのは、おそらく毎年数週間ここで一緒に暮らした私たち夫婦ということになる。この家のことは実家のごとく隅々まで知っている。(「ヴェネツィアの日常」参照)カンナレッジョのこの家にマンマがいる、という思いが私の人生の支えのようになって久しい。しかし、そう遠くないうちにこの家は人手に渡ってしまうだろう。アドリアーノの配慮で、その前にもう一度ここで過ごす機会を得た。鍵を預かり、翌週からはこの家に住むことになった。
住み手を失った家はやはり埃をかぶり、どこか寂れている。日をあらためて、アパートから荷物を運び、家の掃除をしに行った。何もかも見慣れたモノたちを片づけていると、マンマと過ごした日々が蘇り、さすがにこみ上げてくる思いで胸がいっぱいになる。同時に、どこかにマンマがいるような気もしてふっと不思議な感覚にとらわれてしまう。
数年前にマンマがサルディーニャ旅行に行っている間、私たちだけで過ごしたことがある。
(「ヴェネツィア暮らし」参照)
あの時と物理的な状況は同じなのだ。マンマが家にいないのは、どこかへ旅に出ているだけ、と思えてくるのだ。
その週末をフリウリで過ごし、月曜の夜遅くにヴェネツィアのマンマの家に戻った。マンマがいた時と同じようにしつらえをし、その後の数日をここで過ごす。心配していたより寂しくはなく、懐かしさと安心感がまさっているような、自分の家に帰ってきたというくつろいだ気分。向かいの部屋にはマンマを本当のノンナ、おばあちゃんのように慕っていたシーラも住んでいるし、上の階には仲良しだったフォスカリーナも居る。
ここに来てからずっと常にマンマの魂、アニマの存在が身近にあり、あたたかく包まれているような気がしていた。きっとほんとに居てくれたのだと思う。
今から思えば、3年前に来た時、マンマには何か予感のようなものがあったのだろう。いつもは私たちはサロンのソファベッドを使うのに、前回に限ってマンマがメインの寝室を使うようにと勧めるのでそれに従った。そのため、寝室の戸棚にびっしりと積まれたリネン類をしげしげと眺めることができた。
長く愛用されて使い込まれたテーブルクロスやナプキン、縁飾りのレースを施したタオル、ピンとアイロンをかけられたシーツや枕カバー。
それはまるでマンマの人生を象徴する地層のように思えたのだった。
マンマは口癖のようにこの家のものは何ひとつ要らないから処分してもいい、という。そして、私が少しでもいいねとか、好きだとかいおうものなら、すぐさまお皿でもテーブルクロスでも何でも持っていけというのだった。
今回私はマンマのテーブルクロスやナプキン、縁飾りのレースのタオル、圧力鍋やお皿などをいくつか、いわゆる形見のように譲り受けてきた。
3年前のあの時に、私たちは無言のうちにどこかでうすうすとこの日が来ることに気づいていたのかもしれない。
ヴェネツィア最終日。
朝早くから、マンマが冷凍庫に残していたファッジョーリ、いんげん豆を解凍して最も伝統的なヴェネトの家庭料理、Pasta e Fagioiを作る。ここにこうやっていられるのもすべてマンマとの出会いがあったおかげ。マンマに教わった通りに、使い込まれたマンマの鍋や道具を使って、すべてのことに感謝しながら豆を煮る。
豆をpassaverdureで漉していると、胸がつまって涙がとまらなくなってしまった。しばし、窓のそばへ行っておいおいと泣いてしまう。これは、私なりのマンマとのお別れの儀式なのかもしれないと思う。
マンマありがとう。これからもずっと私の心の中で生きていてくれますね。
by tencovenexiana
| 2017-01-09 22:03
| venezia2016