2017年 01月 25日
リチェッタの秘密 |
ヴェネツィアの家でマンマ・ロージィと過ごした日々。他愛もないおしゃべりをしながら市場へ買い物に行き、狭い台所に立ち、円い小さなテーブルで食事をする。ただそれだけでいつもあたたかい気持ちに包まれる。私たちにとって何ものにも代えがたい至福の時でした。何であれすべて必ず終わりがあると分かっているからこそ、その一瞬一瞬が大切でした。
後年パパ・ヴィットリオを失ってから、ひとり暮らしになったマンマは、普段は簡素な食事ですませているようでしたが、私たちの滞在中は、はりきっていつもより凝った料理に腕をふるってくれました。それはまずは(食べさせ甲斐のある)私たちのためだけれど、ひとり分だけでは作る気になれずにいた、久しぶりに自分も食べたいものだったのかもしれない。
寝食を共にするという言葉通り、毎日同じ食卓につくことが人の結びつきをどんなに深くするかをあらためて実感しています。あたたかい食事とヴィーノがあれば、人は幸せになり心もやさしくなって通じ合うものなのだと。
家庭料理は日々食べるもの、当然毎日食べ続けられる味でなくてはなりません。マンマの料理は限りなくやさしく、どれもしみじみとしたおいしさ。どんな贅を尽くした美食もかなわない、究極の味なのです。
私には決めていることがあります。それは、ヴェネツィアのマンマから学んだ通りのやり方を可能な限り忠実に守ること。マンマの料理はたいへんシンプルなのですが、そのかわり手抜きは一切ありません。口癖は「Pazienza!忍耐」。材料をよくよく吟味し、根気よく丁寧に下ごしらえし、きちっと手順をふんでいきます。
料理とはなにげないディティールの積み重ねであり、それが最終的な味に大きく影響する重要な点であるというのも、みなマンマ・ロージィから教わりました。
材料を加える順番、火加減、かきまぜかた、そしてもっとも気をつけなければならないのは、塩を入れて味付けするタイミング。こういう頃合いをみはからった呼吸というか、全体の流れのなかの一瞬は、本を読んだだけではわからない。いつもヴェネツィアの家の小さな台所で、マンマの傍にくっついて教わったことばかりです。
聴覚の世界に「絶対音感」があるように、味にも「絶対味感」といえるものがあると思う。ある一点でぴしっと決まる味の規準、といったらいいだろうか。そこを見事に射ぬくには、デリケートな作業の上に一振りされるタクトのような力が必要です。
例えばそれは塩について。マンマは野菜を茹でる時には塩を加えません。
パスタを茹でる時、鍋の水は沸いてから塩を入れます。どんな煮込みでも、鍋に塩を入れるのは一番最後です。リゾット、ズッパもしかりです。
野菜であれ、肉であれ、食材にはもともとミネラル分としてナトリウムが含まれています。うまくその素材の味をひきだしてやれば、それだけで薄い塩味を感じます。なので、塩はそれを補うために最後に加えるのです。
逆に途中で塩味をしっかりつけてしまうと、そこで素材の味は頭打ちになります。濃い塩味で煮詰まったものは、後から水で薄めても元には戻りません。魚介類の場合はもともとの塩分が強いので、さらに注意が必要です。追加する塩はほんの少量を加減しながら慎重に。
そして、素材自体が塩味の旨味を持った貝類には塩を使いません。
例えばそれは鍋の温度。材料を入れるのは、必ず火にかける前の冷たい状態の鍋です。トマトソースを作るときにも、全ての材料、トマトやニンニク、オリーブオイルを冷たい鍋に入れてから火にかけます。ソテーといっても、熱した油に材料を投入して「炒める」ことはしません。熱した油に水分のある材料を投入すると、水と油はジャッとはねて一気に分離してしまいます。一度分離した水と油は決して混ざり合うことはなく、とろりとしたソースにはなりません。
あくまで、じわじわと熱が伝わり、適温になったところで水と油分は混ざり合い「乳化」することによってソースになるのです。野菜は茹でるか、あるいはトリフォラートという「蒸し煮」「オイル煮」にしますが、炒めて焦がす調理法はありません。熱いオイルでニンニクを焦がすのも見たことはありません。
ただし、このような理屈は後から私が分析した結果です。実際にマンマにどうしてこうするの?と訊いてみても、たいがい「昔からそうしているから、それが一番」という答えが返ってきます。つまり、マンマのリチェッタは代々口伝ともいうべき方法で母から娘へ連綿と受け継がれ、理由など必要としない不動のものとして確立されているようで、そこには味の秘密が凝縮されているのです。
東京にいてマンマの料理を作る場合、魚や野菜の種類がヴェネツィアとは異なるのは仕方ないのですが、できるだけ近い味に再現できるものを探します。例えば、ブザラ風ソースで使う海老は生の状態で赤い、甘みの強い水分の多いものが適しています。ヴェネツィアでは赤いガンベレッティを使いますが、東京では手に入りやすい解凍もののアルゼンチン産赤海老を使います。適切な食材が手に入らない時には、無理をせずその料理を作るのを諦めます。
食べ方もヴェネツィア流を守ります。例えば、小海老の殻や足など日本人的には丸ごと食べてしまいたいものですが、ヴェネツィアでは、あのしゃりしゃりした食感を嫌い、決して口に入れません。マリネにしたひしこ鰯の小骨などもしかり。
「どうして?丸ごと食べたほうが美味しいのに」と、日本人たちは皆口を揃え、そして丸ごと食べてしまいます。実は私自身もはじめはそう思いました。でも、今はきちっと殻や小骨を外して食べています。
何故か?そうしないとこの料理の本当の味ではないと思うようになったからです。伝統的な料理のリチェッタや成り立ちには、暗黙のうちに受け継がれてきた正当な意味があり、それを知ることが大事です。
マンマの料理は今や私にしか作れないものになってしまいました。自己流にアレンジせずに伝えることが、マンマとその文化に対する感謝と敬意なのだと思っています。
by tencovenexiana
| 2017-01-25 23:24
| cucina