2016年 05月 20日
ヴェネツィア暮らし |
さて、2000年に「ヴェネツィア的生活」という本を書いたのをきっかけに始めたホームページ。2012年までで更新はストップ、今ではアーカイブとして使っていますが、久しぶりに読んでみると、自分の文章ながら面白い。ヴェネツィアについて語りたい事は何も変わっていないし、何より我が愛するマンマロージィと過ごした時間がリアルタイムで刻印されているようで、懐かしい思い出に浸りながら読みふけってしまう。今までもアーカイブシリーズとしてブログに転載してきましたが、積極的に現在の状況とシンクロさせながらまとめていこうと思う。マンマが私に手渡してくれたもの。それをまた次の誰かに伝えていけるように。2009年に経験した「未来のシュミレーションをしているような既視感」。それはマンマが居なくなったヴェネツィアを予知していたのかもしれない。
ヴェネツィア暮らし(2009年6月GAZZETTATENCOのダイアリーより)
ヴェネツィアから戻ってかれこれ半月以上経つけれど、今回はいつになく時差ボケがひどくて復帰が遅れた。トシなのかな、やっぱり。おまけに帰国まもなくアントネッラが恒例の出張で東京に来て、その間またもや強力にイタリア語(フリウラーナのマシンガントーク)な日々だったんで、それも脳内復帰が遅れた一因かもしれない。ちょっと前にヴェネツィアは変わらないというようなことを書いたばかりなのに、1年半ぶりに行ってみたら随分いろいろと変化があったので訂正しとかなきゃ。
まずはメインの公共交通である水上バスに「imob」というカード読み取り式の自動改札システムが導入されたこと。今までの定期券システム、カルタヴェネツィアは白紙になり、あらたに登録申請の手続きが必要なのがやや面倒。だけど普通に1回乗るだけで6エウロという驚愕の料金!なので、これなくしてはとんでもない交通費を払う羽目になるから、とにかくヴェネツィアに着いたら初日にピアッツァレ・ローマの事務所に行くしかない。ヴェネツィア人にこのシステムは適合するのか疑わしいもんだと思っていたが、案の定というか当然というか窓口は長蛇の列、しかも故障なのか何なのか発券された整理番号の順番表示が乱数表のごとく滅茶苦茶で、ちゃんと並んでいたのに飛ばされてしまうことしばしば。そこへ便乗して横入りする奴もいたりして、またたく間にクレームをつける人、果ては激昂して怒鳴る人続出の大混乱。ああイタリアに来たなあとひしと実感が湧く事態に陥った。我慢強く並んでいた我々の順番も見事に飛ばされたが、怯まず何とかねじ込んで書類を提示。窓口のラガッツァによるこの書類の写しがカードに印字されるのだけど、これがまさにテキトーであちこちに間違いが発見されるも、いちいち指摘していたら永遠に発行されそうもないので、名前のスペルが違ってようがなんだろうが気にしないことにする。小1時間かかって、やっと(これまた激しくテキトー&情けないデジタル写真つきの)imobカードを手にすることができた。1ヶ月間有効のチャージが28エウロとけっこうな額なのだが(カード発行代金は10エウロ)なにせ1乗り6エウロだから、あっという間にモトがとれる。期限が切れたら適宜必要な回数分だけチャージできるが、そこは何故か機械化されてなくて(以前は回数券を売っていた)停留所近くのタバッキの親父にカードを渡してチャージしてもらうというゆるさがなんともヴェネツィアっぽいところ。でも、老いも若きもこのimobカードを「ピッ」とモダンデザインの検札機にかざしているんだけど、いまひとつそぐわないというか様になっていない感じ。
もうひとつぴんとこないものがピアッツァレ・ローマと駅をつなぐ新しいガラスの橋、ポンテ・カラトラヴァ。たしかに便利にはなったのは認めるけど、皆が自慢するほど美しくないんだよね。東京でよく見かけるデパートや新開発ビルの連絡ブリッジみたい。そういえば自動ドアやタダオ・アンドウの建築も増えたし、ハローキティもそこら中にあるし、日本のアニメも普通にテレビでやってるし(若者たちはマンガに夢中)ヴェネツィアは次第に東京化しつつあるのだろうか。それからこれは世界的傾向なんだろうけど、圧倒的に中国人が増えた。昔ながらのバールがそのまま居抜きで中国人に買い取られ営業していたりする。他の店に較べてぐっと安いからそれなりに繁盛しているんだけど、ご時世とはいえなんとなく興ざめ。今回のイタリア行きは新型インフルエンザ騒動の最中だったこともあって、試しに海外対応の携帯電話をレンタルしてみた。インフルエンザのほうはイタリアではあまり話題にもならない程度で、懸念していた非常事態には至らなかったけど、結果レンタル携帯はなかなか便利だった。日本とは専らメールでやりとりし(主なる目的は無事を実家の母親に報告するため)、電話はイタリア国内での使用のみだったので、通話料も思ったほど高くならずにすんだしね。前回はナターレの季節だったため、すれ違いになって会えずじまいの友人たちもいたが、今回は携帯でこまめに連絡したこともあって、まんべんなく皆に会うことができた。その代わり、ほぼ毎日のようにアポイントをとりつけ誰かしら人に会ってた感じだったんで、ちょっと忙しかったけど。
昨年膝を骨折したヴェネツィアのマンマは思ったより元気だった。手術の痕はまだ痛々しく(左膝に金属の補強が入っている)階段の昇り降りに多少の難儀があるものの、もう杖をつく必要もなくほぼ普段通りの生活を取り戻している。ここに至るまで手術、入院、そして相当過酷なリハビリを克服してきたのだから、我がマンマ・ロージィはたいした精神力の持ち主であると今さらながら感心してしまった。我々が到着した晩こそ「もう前のような生活はできない体になってしまったんだよ」と弱気なことを言ってしょんぼりしてみせていたけれど、日を追うごとにめきめきといつもの調子を取り戻し、時にはりきりすぎてこちらがひやひやするくらい。ともあれ連れ立ってバールに出かけたり、買い物したり、料理したり、ごはん食べたり、そしてその間ずうっとお喋りをしたり、いつも通りマンマと一緒のヴェネツィア暮らしができる幸せを噛みしめたのだった。
ちょっと違っていたのは、私たちが日本に帰る数日前にマンマがひと足早くサルディーニャへヴァカンツァに出かけてしまったこと。つまりその数日間は私たちだけでヴェネツィアの家で過ごすことになった。おそらくサルディーニャ旅行をひとつのリハビリの目標にしていたのだろう、私たちの予定よりずっと前から日程を決めていたのだ。というわけで、サルディーニャへ出かける3日前くらいから服装計画(屋上の物置から夏用の水着やサンダルを出したり)に荷造り、美容院や親戚へのお土産だのと大騒ぎの旅支度を手伝い、当日は列車でローマへ向かうマンマをサンタルチア駅までお見送り。なんだか立場が逆転していて変な感じだった。家の鍵はいつも専用のを預かっているので、帰る日に上の階の住人フォスカリーナに返しておけばよいことになっている。それだってマンマは「その鍵はどうせあんた達ので、今度来る時も使うんだから日本へ持って帰っていいよ」なんて言ってたんだけどね。
さて、マンマが出かけてしまった後、勝手知ったる家での数日はいよいよ「ただの日常」と化し、千駄ケ谷の自宅にいるのとあまり変わらない感じだった。日中外へ出る用事もご近所の知合いのところやパパのお墓参りだし。帰るまでに冷蔵庫も空っぽにしておかねばならないから、せっせと残り物「AVANZI」を片づける日々。(残り物といってもそこはマンマが用意したものだから充分においしい)夜もだらだらテレビなんか見ながらつくろい物や荷物の整理、部屋の掃除をして過ごす。イサオ君は例によって家の営繕作業、台所の流しのシリコンや蛇口のパッキンを取替えたり、寝室の電気のスイッチを直したり。そうやって2人だけで家にいると、昔からずっとここで生活しているような気がして、時々ふっと既視感にも似た奇妙な感覚におそわれる。よくできた夢の中にいるような、未来のシュミレーションをしているような、なんともいえず現実感がすうっと薄まる不思議な気分。前世の記憶ってこんな感じなのかもしれない、なんて思えるような。ヴェネツィアの夏の夜は長い。ようやく空が青色に暮れていくのは午後9時をまわる頃。簡単な夕食を済ませてから散歩に出かけても、ラグーナの夕景の時刻に間に合う。島の外側をぐるりと回るGIRA CITTAの船に乗り、デッキで夜風に吹かれていると、ヴェネツィアの空気の中に自分の心が溶けていってしまいそうだ。できるかぎりまたすぐに戻って来ようと思う。やっぱりここは特別な場所なのだ。
by tencovenexiana
| 2016-05-20 02:28
| venezia