2017年 01月 19日
リチェッタのゆくえ |

実家への里帰りよろしくヴェネツィアに通うこと20年あまり。
私にとって何より大事なのは、マンマ・ロージィと一緒に暮らすこと、そして世にも幸せな味を生み出すマンマの料理を食べて習うことだった。マンマの料理には、生粋のヴェネツィア人としての心意気と家族のために傾ける情熱のすべてが込められている。
年を経て、マンマ自身も老境にさしかかってくると、互いに一時でも長く一緒にいたいという思いは強くなっていった。ヴェネツィアにいる間はどんな約束よりも、いつでもマンマと過ごす時間が最優先だった。



マンマ・ロージィの料理は私が初めて体験したイタリアの家庭の味だ。最初、そのあまりの旨さに、さすがにイタリアのマンマの底力は凄いものだと感激した。
が、それが類い稀なることだと知ったのはしばらく経ってからだった。
というのも、その後何年か通ううちに、当然知り合いも増え、他の家庭に招かれる機会も増えてくる。そして、わかったのは、イタリアのマンマの料理がすべて我がマンマ・ロージィのように旨いわけではない、という当たり前といえばそれまでのことだった。もちろん、どこの料理もそれぞれに工夫されているし、その家や地方の伝統の味なので興味深くもあり、おいしいのだけれど、一口食べて度肝を抜かれるようなことはない。やっぱりマンマ・ロージィは特別なのだと思い知ったのである。



イタリアでは、(田舎の数世代同居の大家族などの例外はあるものの)その家庭のマンマの味は、実の娘へと垂直に受け継がれる。イタリア男がいつまでたってもマンマの味を恋しがる根拠もここにある。つまり、結婚すると男は(自分で作らない限り)妻の実家から伝わる料理を食べ続けることになる。そして私たち日本人が想像する以上にイタリアの男たちは料理や家事をしない。もちろん親から料理を習うこともない。だから、子供が息子ばかりの家ではマンマの味は行き止まりとなってしまうのだ。我がマンマ・ロージィには娘がいない。おそらくマンマ自身、料理を教えたのは私たちが初めてだったのだろう。


「イタリアのマンマのリチェッタのゆくえ」について、先日行ったヴェネツィアで、改めて実地で確認することができた。マンマの長男の家に招かれて食事をした際、夫婦で腕をふるってくれたのは、妻であるグラツィエッラが実の母親から習った料理だった。彼女は漁師の島ブラーノ出身、手料理の数々は伝統的なリチェッタにオリジナルなひと工夫をした凝った魚介料理だった。夫のアドリアーノも料理好きで、イタリア男にしては珍しくマメにキッチンに立つ方だ。手間暇かけた見事な料理は初めて食べるものばかりで、おいしかったけれど、いずれもマンマのリチェッタではなかった。
アドリアーノ夫婦がマンマの家へやってきて、私たちと一緒に食事をすることがたびたびあった。そんな時、マンマは前日あたりからあれこれ細かく念入りに準備に取りかかっていた。バカラ・マンテカート(戻した干しタラのペースト)やカルチョフィのオイル煮など息子の好きな手間のかかる伝統料理をこしらえ、食器やテーブルクロスも客用を用意する。私たち3人の時より、数段フォーマルなセッティングであり、もちろんテレビをつけっぱなしにすることなど絶対になかった。思えば、それは嫁であるグラツィエッラに気を使い、また母親としての威厳を保つためだったのかもしれない。アドリアーノたちは私たちがあまりに自然にマンマを手伝って立ちはたらくので、いつもびっくりしていたようだ。



まるで運命の糸に手繰り寄せられるように、大いなる料理人であるヴェネツィアのマンマに出会い、そのリチェッタを受け継ぐことのできる幸運に心から感謝している。マンマがこの世を去った今、世界中でそのパーソナルな味を再現できるのは、もう私しかいないのだ。ぽんと離れた飛び地のようなところに伝わることになるけれど、マンマのリチェッタは何としてでも残さねばならない。
また私と同じかそれ以降の世代では、イタリアの家庭料理も効率的でより簡単なリチェッタに移り変わり、伝統的な家庭料理はある種のノスタルジーとなりつつある。これはイタリアのみならずグローバルな傾向だろう。日本の食の伝統も、同じく私の親の世代でひとつの終わりを迎えているようだ。いつも思うことだけれど、もし私が日本のどこかの郷土料理の達人と衝撃的な出会いをしていたら、同じように習おうとしたかもしれない。ただ私の人生を変えたのは、ヴェネツィアのマンマだったということなのだ。
遡ること十数年前の2000年、マンマの世代で何かが終わろうとしている、という危機感のような思いが私に本を書かせた。そして今、その思いはもう一度強く私を急き立てている。



by tencovenexiana
| 2017-01-19 00:30
| おいしいごはん/mangiarebene