2017年 02月 09日
イエスの生涯を読む |

遠藤周作「イエスの生涯」、何度目かの再読をしました。
あの小説「沈黙」から7年後、生涯を通じてイエスその人を描こうとした遠藤氏の50歳の作品。同じくイエスを題材にした小説「死海のほとり」の創作ノートに加筆し、まとめたものです。読むたびに新たな発見と感動があるのですが、今回は特に、イエスを磔刑に裁いたユダヤの大司祭カヤパ、ローマの知事ピラト、ガリラヤの分国王ヘロデらの戸惑いと保身のための狡猾な判断、そして死を覚悟した師を裏切り、散り散りに逃げ惑う弟子たちの弱さゆえの苦悩などが、まるで今、同時代を生きるものたちのように迫ってきます。
早くに洗礼を受けた氏は、キリスト教を「身に合わない洋服」のようだと感じながらも、信仰心の篤い母親から与えられたその服を脱ぎ捨てることができなかったという。母なる存在、永遠の同伴者、という二つのキーワード。ページのいたるところに胸に突き刺さり、また染み込んでいく言葉がちりばめられています。

「イエスの生涯」に続き、遠藤周作の「キリストの誕生」を再読中。(これから読む人は、必ずこの順番で読んだほうがいい)イエスの死後、あれほど弱く小心だった弟子たちが、どうして命を投げ出すほどの勇気と熱情をもって、キリスト者になりえたか。ほとんどスリリングとも思える筆致で描き出される群像が、胸に迫る。
人は常に己を理解し、無条件に受け入れてくれる誰かを求めるものなのでしょう。それが神であろうとなかろうと、人生の同伴者が心の中に存在しているかどうか、が日々を照らす光となるのです。

イエスの生涯は、十数年前、父が急死した時にたまたま読んでいた本。その時も何か啓示のようなものを感じたのでした。以来、たびたび読み返していますが、この本に自然に手が伸びる時というのは、自分にとってターニングポイントになる時期なのかもしれないと思い当たりました。
私はクリスチャンではありませんが、彼らにとっての聖書の言葉、福音というものがどういうものなのか、少しわかるような気がします。人はその命を終えても、心の中に生き続けることができる、ということを、比喩的な意味あいでなく表現されています。
続編とも言えるキリストの誕生、ではさらにそれが信仰になっていく過程を、芸術家が作品を生み出す過程に重ねて描かれています。とても平易な文章なのが、逆に遠藤氏の思考の深さをうかがわせます。

共に生きる、conviviumという意味を、改めてかみしめています。
昨年末にマンマの死後はじめてヴェネツィアに行き、マンマのいないヴェネツィアと家で過ごした日々は、私にとってある種イニシエーションともいえる特別な体験でした。生きているときはもちろん、この世から去った後もなお生き続けるということ、文字どおりに「母なるもの」を心に抱き続けること、を比喩的な意味合いでなく実体験として感得できたのでした。ヴェネツィアのマンマの家で過ごした数日間、マンマは私の中に甦り、それからは常にそばにいてくれる存在として感じています。
スコセッシの映画がきっかけとなって遠藤周作の本が多くの人々に読まれることを願います。少しでもこの世の中を浄化することになれば、と。
以下長い引用です。今の私の心に強く響いた言葉たち。
〈キリストの誕生 第2章 辛い、長い夜〉より
私はルカとヨハネの両福音書に書かれた顕現のほとんどが、
弟子たちとイエスが共に食事をするという点で一致していることに注目する。
共に食事をするというのは、イエスを精神的支柱とする教団の結びつきを象徴しているが、同時にそこには弟子たちが生涯の「同伴者」としてあの人を深く感得していたことを示しているのだ。
この同伴者イエスの意識はとりわけルカが書いた「エマオの旅人」の顕現の話に最も強く、滲み出ているであろう。イエスの処刑後、打ちのめされた弟子の二人が『エルサレムより3里離れたるエマオと名付くる村に行く途中、起こりたる凡てのことを語りしが、イエス御自らも近づきて、彼らに伴い居たまえり。』
「彼らに伴い居たまえり」という言葉には、自分を見捨てた弟子を許し、彼らの嘆きや苦しみを分かち合おうとするあの人のイメージがはっきりと出ている。あるいは同伴者イエスは死後も自分たちのそばにいるという弟子たちの宗教体験が強く反映しているのだ。
イエスは死んだ。しかし彼はイザヤ書に書かれていたように甦って自分たちのそばに何時もいるのだという意識がこの物語を生んだのであろう。



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by tencovenexiana
| 2017-02-09 02:16
| vita giornale